西沢利郎

———西沢先生は東京外国語大学スペイン学科卒業ですが、学生時代の夢や、将来目指した職業などはあったのですか?

西沢:私は高校生の頃から、日本の外に出て仕事がしたいと思っていました。小学生のときに1年間だけアメリカに住んだことがあって、それが海外への憧れを抱かせたのでしょうね。子供たちの将来の夢で、よくパイロットとかがあるじゃないですか。私もそういった夢を語る子供の一人でした。小学生にとっては飛行機に乗ること、すなわち海外での仕事ということですかね。それが中学、高校になると、「視力が悪いからパイロットは無理。でも海外には行きたい」に変わって、国際関係の仕事をしたいと思うようになりました。

1970年代後半ですが、受験勉強で英語はさんざんやったので、ほかの言語に興味をもって、日本では中南米のポテンシャルが高いと言われていたのでスペイン語を選んだんです。大学に入ると、それこそゼロからスペイン語を勉強して、2年目には英語よりも親しみをおぼえるようになりました。学部3年目になる頃には、「将来の理想のキャリアパス」への思いが芽生えてきて、「研究者として大学に籍をおきつつ、数年毎に国際機関などで仕事をする。大学と国際的な実務の世界を行き来できるキャリアがいいな」と考えるようになっていったんですね。

———そのようなキャリアには、身近にモデルがいたんですか?

西沢:モデルがいたわけではないですね。ただ、そういう思いが湧いてきたんです。外交官試験の勉強会に入ってみたり、国際機関で仕事をなさった経験のある先生のお話を伺うためにご自宅まで訪ねていったことはあります。いろいろ考えて、結局、研究者になるために経済の分野で大学院に進むことにしました。そこで、ゼミで指導を受けた先生の出身大学の一橋大学の大学院を受けんですが入試に落ちましてね。就職活動もしないで大学院に進むつもりでしたので、それなりにショックでした。そうしたら指導教官から「東大には学士入学があるから、それを受けたら?」って勧められて、留年は避けたかったので受験したら幸い合格して、専門課程から本郷に通い始めました。

photo: Masahiro Shida

経済学部では一昨年亡くなられた宇沢先生のゼミに入ったんですが、やっぱり、いるんですよね。研究者を目指していて学生のころから何かが違う、すごい人っていうのが。そうした天才肌の先輩たちを見て愕然として、自分には研究者は無理だなと痛感して、学者への道で挫折して就職することにしました。金融機関で特に国際業務に強いところを探して、日本輸出入銀行(現在の国際協力銀行)に就職したという経緯です。

———入社当初の仕事内容はどんな感じだったんですか?

西沢:銀行に入って最初の3年間は海外投資研究所、つまり調査部ですね。当時は今のようにインターネットはなかったので、海外の情報収集はもっぱら新聞の切り抜きとか、通信社から来る資料をこまめに見るぐらいでした。そこでは、中南米の政治経済情勢をまとめて、経営判断なり与信判断なりに役立てる仕事をするセクションに3年いました。その間、当時の大蔵省に新設された財政金融研究所(現在の財務総合政策研究所)で非常勤リサーチアシスタントのような仕事をさせていただいたことがとても印象に残っています。毎週のように政治・経済分野の新進気鋭の先生方のお手伝いをしたのですが、研究者の道を諦めた自分にとっては憧れの世界を垣間見せてもらったわけです。その後、公費で留学させてもらい米国ウィスコンシン大学で経済学修士号をなんとか手に入れてから帰国し、2年ほどアフリカ向け融資の仕事に携わりました。これはまったく巡りあわせの妙なのですが、ソ連邦崩壊直前の1990年には外務省に出向することになりまして、期せずして外交の仕事をすることになりました。いってみれば、これが私の出向人生の始まりです。結局3年近く当時の経済協力局で、ソ連邦崩壊後の金融支援、それから世界銀行やアジア開発銀行などに関わる仕事に携わりました。銀行に戻ってきたら、今度は中央アジア担当になって、日本のビジネスの後押しのようなことをやりました。ただ、それは1年に満たず、1994年の1月には「IMF(国際通貨基金)にポストがあるから出向してくれないか?」と言われて、2月に面接を受けて、8月の終わりにワシントンに赴任しました。

———その後、IMFから世界銀行にも行かれたんですよね?

西沢:そうですね。これも時代の流れに翻弄されたというか、まあ、機会に恵まれたと考えるべきなのでしょうが。IMFでは重債務貧困国が抱える債務問題の担当になって、いわゆるパリクラブという債権国会議に関わる仕事が中心でした。モンゴルとかイエメンには何度も出張して、チームの一員として経済プログラムの協議・交渉に関わりました。そうこうするうちに1997年の7月にはタイの通貨バーツが暴落して、これがアジア通貨危機の発端となったんですが、ちょうどこの時期に世界銀行への横滑り出向の話が持ち込まれました。世界銀行では民活インフラ、最近は日本でも良く耳にするプライベート・ファイナンス・イニシアティブ(PFI)とか官民連携(PPP)の担当になったんですが、アジア通貨危機の最中ですから、比較的影響が少なかったフィリピンとベトナムの仕事で2年間を過ごしました。世界銀行から国際協力銀行に戻ったのが1999年の終わりで、それから10年ほどの間は、もっぱらアジアの国々を相手にして、信用力審査や融資、それから調査研究のセクションで過ごしました。インドネシアやタイを中心にカウンターパートとのお付き合いが深まって、いまだにそれは続いています。その当時から親しくお付き合いいただいている人たちのなかには、財務大臣や中央銀行総裁になった人もいて、嬉しいような誇らしいような気持ちですね。

———この時期に大阪大学で非常勤招聘教授をされていますが、これはどんなきっかけで?

西沢:それは、大阪大学におられた高阪章先生から開発や国際金融の出前講義をしてくれないかというお話をいただいて、最初は4人ぐらいで非常勤講師として分担してやっていたんですが、最後まで残ったのが私だったんです。結局、2014年まで10年以上も続きました。

———現在は東大で教授職に就かれているわけですが、最初の夢である「国際機関と大学を行ったり来たりする仕事」を、それなりに実現している感じですよね?

西沢:はい、本当にそうなんです。思いがけず実現しているんですよ。外務省に出向する機会があり、IMFと世銀でも働く機会を得て、大学にも呼んでいただいて、かつて挫折した者としては、本当にありがとうございますということです(笑)。 これまでを振り返ってみると、やはり人とのつながりが大切だと、つくづく思いますね。私はもっと早くこれに気づいていれば良かったと実感しています。

———話が変わりますが、学生時代に得た経済学の知識と実務では、ギャップはありましたか?

西沢:もちろんギャップはあります。学生の時には、よほど実社会と接点がないかぎり、経済学を学んでも、おそらく実感が湧かないし、深い理解はできないと思うんです。なので、実社会で何か意味のあることを学ぼうと思う人にとっては、かなりフラストレーティングだろうと私は思いますね。実社会に出て初めて、学生時代に学んでいたことは現実を凝縮したエッセンスだったんだと、ようやく分かるわけです。経済学は特に実社会の中で翻弄されてから戻ってきて学ぶと、強いモチベーションを持って、高い問題意識をベースに研究ができるんじゃないかと思います。そういう意味で、いったん社会に出てから大学に戻るのは良いことだと思いますね。

———そのような観点から、授業をする際に心掛けておられることはありますか?

西沢:私はもっぱら現実の問題について学生が関心を持って、自分なりの意見を持てるよう手助けすることを心掛けています。すでに理論は学んでいるわけですが、理論と現実の問題とをつなぐことができない学生さんが大半じゃないかと思うからです。なので、まずは身近な現実の問題を示して、それに関心を持ってもらえるように仕向けて、いろいろ考えて自分なりの意見を持てるよう手助けするのが私の役割だと考えています。そうすると、おのずと自分の意見を説得的に伝えるためには、場合によっては理論が役に立つことに気付きますし、理論についても、深いところで理解できるようになるんじゃないかと思っています。でも、なかなかそれも難しくて、何か問題を出すと、理論が得意な学生さんからは「現実はそうかもしれないけど、理論ではこうです」という答えが返ってくるわけです(笑)。それって逆なんじゃないかと。私は「いや、理論はそうだけど、現実は違うんだよ。それで、あなたはどうやって、そのギャップを埋めるのかな?」と切り返すんですけどね。

———最後に、学生の皆さんに向けて、ひと言をお願いします。

西沢:まず一つ目は、現実の世界との接点を持つことで問題意識を高めてほしいですね。そうすると、学問的な知識を深めるときに健全なモチベーションが湧くものなので。そういう健全な現実感覚に裏うちされた知識を身につけてほしい。いまの日本は、理論と実践のギャップを埋められる人材を必要としていると思うんです。そうじゃないと日本は国際社会の中でどんどん埋没していってしまう。いま私の仕事のなかではGSDMが大きな比重を占めているんですが、学生さんはこうしたプログラムを最大限に活かして、理論と実践のギャップを埋められる国際人材に育って欲しいですね。あと二つ目は、人とのつながりでしょうか。その場その場の損得勘定だけでお付き合いしていると、チャンスが訪れないということですかね。その時々に自分が役立てる最大限をやって、誠実に仕事をすることが大切だと思います。それに、国籍とか分野とかを問わず幅広く知り合えると良いですね。GSDMは人材のるつぼなので、学生さんは恵まれていると思います。私はまだまだ幅広くお付き合いできてないので、これは努力目標なんですけど。それを続けていくなかで、どこかで誰かがチャンスを与えてくださるかもしれない。ちょっとオヤジっぽいですかね(笑)。他力本願じゃだめなんですけれども、幅広い人的なネットワークは貴重な財産ですよね。

<インタビュー 岸本充生、記事構成 柴田祐子>