河合正弘

———先生は東大経済学部の卒業後、スタンフォード大学で統計学修士と経済学博士を取られたんですね。

河合:はい。東大の学生当時、私はマルクス経済学に関心があり、世界経済とか国際経済、とくに19世紀のイギリスとドイツの経済構造の違いや対外的な国際収支構造の比較などを勉強していました。近代経済学をちゃんと勉強しなくてはならないという意識を持っていたので、日本で勉強するよりはアメリカで勉強したほうがいいだろうとスタンフォード大学の大学院に行きました。そこで大学院の所属は経済学だったのですが、統計学の授業をいくつか取ってみたら面白く、他の授業も追加で取ったところ、統計学の修士号を取れたのです。経済学の博士課程のときにブルッキングス研究所に行き、そこで Ph.D論文を完成しました。

———その後、ジョンズ・ホプキンス大学の助教授ポストにアプライされたんですね。この時に日本に戻るという選択肢は?

河合:全く考えてなくて、アメリカにしばらくいようと思っていました。ジョンズ・ホプキンス大学では大学院と学部で私の専門である国際金融論の授業を持ち、それ以外に統計学とか計量経済学、国際貿易論など、かなりたくさんの授業を担当しました。最初は準備がとても大変でした。しかも学生が先生を評価するのですが、それが結構厳しいんですよ。1970年代末とか80年代頭ぐらいで、すでにそういうシステムがありましたね。

———その時代からあったんですね。その後、86年に東大の社会科学研究所に?

河合:そうですね。社会科学研究所というのは、昔からマルクス経済学やマルクス法学で知られていたのですが、近代経済学的な手法を持った人間が必要だということで私に声がかかりました。社会科学研究所では私が近代経済学で採用になった最初の教官でした。研究所に所属しても授業を持つことが期待されていたので、大学院で国際金融論を教えました。それから10年くらいした頃、1997年にアジア金融危機が起こったのですが、その時に世界銀行から、東アジア大洋州地域担当チーフエコノミストになって金融危機に対処してほしいという話が来て、3年間出向しました。東アジアを担当するチーフエコノミストというのは、ASEAN、中国、韓国など東アジア地域全域をカバーする役割なのですが、それまではすべて欧米の人間で、アジア人がなったことはなかったようです。世界銀行も東アジアの経済学者の目から見て分析し、政策アドバイスをする必要があったようで、私に白羽の矢が立ったのでした。
実は私は、スタンフォード大学の大学院に応募する時から、国際機関に勤めたいと思っていたのですよ。でもその後、大学に勤め、自分は大学の研究者としてやっていくんだと思っていたところに世銀からのオファーが来たので、夢が叶ったのだと思いましたね。実際、世界銀行に行って、多くの面白い経験をすることができました。90年代はアジア経済の調子がよく急成長していましたが、成長している時は問題点が隠されて、顕在化しないんです。でも97年のアジア金融危機で、多くの問題点が一気に表面化したわけです。世界銀行はワシントンにあって、そこから東アジア各国に出張し、各国の政策担当者、一番高いクラスだと財務大臣レベルにアドバイスするという役回りで、多くの人たちと話をしましたね。大学の研究者だった時は、誰かが書いたものを読んで理解するという、いわゆる間接体験だったのが、世銀の仕事では直接体験することができたので、すごく面白かったです。

———なるほど。その後に財務省大臣官房参事官とありますが、社会科学研究所に戻ってきて、すぐに財務省に?

河合:世界銀行から大学に戻ってきた数カ月後に財務省から話がありました。当時の財務官だった黒田東彦(はるひこ)さんから副財務官をやらないかと相談があり、つい乗ってしまいました(笑)。その時は大学を辞めることが条件だったので、社会科学研究所に相談して、大学を一時的に辞めて財務省に2年間行くことになりました。
この2年間の仕事は世銀の時の仕事と比較的似ていたのですが、時期的にアジア金融危機は収束して回復していく時で、アジアのその後の構造改革をモニターすること、OECDなどの国際機関に対応すること、そして日本経済について対外的に説明することなどが役割でした。大学のときには世界経済・日本経済のことを間接的に見ていましたが、世銀で当事者として立ち合い、日本の公的な機関である財務省の立場から再度直接体験をするという非常に貴重な経験を続けてしましたね。

———2年で財務省から社会科学研究所に戻られて、また2年後に動かれていますね?

河合:そうですね。財務官をされていた黒田東彦さん(現日銀総裁)がアジア開発銀行(以下ADB)の総裁になられたのです。ADBは政策研究能力など知的基盤をもっと強くしたいということでしたので、黒田総裁から私に声がかかり、ADBに行くことにしました。具体的には、アジア地域経済統合の担当になり、理論的な観点を超え現実の政策に移していくということをやっていました。とくにASEAN+3諸国(ASEAN10か国プラス日本・中国・韓国)の金融協力やアジア金融統合、アジアの貿易連携などに焦点を当てていました。そしてその1年半後にADB研究所(ADBI)の所長になりました。ADBIでは、ADB本体のスタッフとADBIのエコノミストが一緒に協力して様々な研究を進めました。ADBのスタッフの大半は融資プロジェクトのことばかりを考えており、自分の仕事が客観的にどのような意味があるのかを書く時間がないんです。そこで、実際にオペレーションに関わっているADBのスタッフを巻き込むかたちで、2009年に『Infrastructure for a Seamless Asia』という報告書を出しまた。これは私が言うのはおかしいのですが、きわめて評価が高い報告書でした。そういうこともあってADBIが世界のトップレベルのシンクタンクとして評価されるようになりました。黒田総裁が2013年3月に日銀総裁になられて、ADBに新しい総裁が着任され落ち着かれたところで、私は7年間所長を務めたこともあり、ADBIを辞めて公共政策大学院に来たのです。

———ここまでご経歴を伺ったので、次は最近のご関心を教えてください。今は環日本海経済研究所の代表理事・所長もなさっているんですね。

河合:はい。環日本海経済研究所というのは、日本と北東アジア諸国の間の経済交流を促すことを念頭においた調査研究を行う研究所です。研究の対象国は中国、韓国、北朝鮮、モンゴル、ロシアです。それぞれの国の経済状況をフォローし、北東アジア地域のインフラ協力、貿易・投資の活性化、エネルギー協力の潜在性を探っています。日中、日韓の経済関係、そして最近は日ロの経済関係が新たに注目を浴びています。日本では、この地域の分析は国際関係や政治の専門家が多く手掛けており、経済の専門家が少ないのが悩みです。また、韓国経済とか、中国経済、ロシア経済それぞれの専門家はいても、北東アジア全体を見渡し、経済的な相互依存とか経済協力の観点から研究する専門家が殆どいないのが現状です。その意味で、この研究所は極めて有用なかユニークな研究所です。

———日中韓は、これから非常に大事な分野ですよね。

河合:はい、研究上も明らかに成長分野です。アジアの中の最大の経済大国である中国と第2の経済大国である日本が、様々な形で協力関係を深めていかないと平和で安定したアジアにはなりません。東シナ海や南シナ海での今の中国のやり方には問題があると思いますが、同時に実際の日中間の経済的なつながりが相当強く深いものになっているのも現実です。日中関係は様々な視点から取り組む必要があると思います。日本人の多くは、この2000年ほどの歴史を踏まえ、中国のことを尊敬していると思っています。日本の文化、漢字とか、極めて多くのものが中国からもたらされたわけですよね。その通過点である韓国もかつて、日本にとって大陸の新しいものや考え方を伝える媒介者だったわけです。そうした歴史的なつながりの強い日中韓の間で、経済的なつながりをより強固なものにしてWin-Winの関係を深めることが重要だと思います。そうしたプラスの関係をもっと太くすることで、お互いの違いを相対化させていけるものだと思います。政治的・地政学的な問題を念頭に置いた上で、経済学的なアプローチをしていくことが、この地域では必要になっています。
また、この分野の若手の育成もやりたいですね。日中韓の問題に関心を持っている学生は多いように思われるので、今度、GSDMのプラットフォームセミナーなどを利用して、北東アジア関係に焦点を当ててみたいと思っています。

———GSDM的な文脈ですと、世銀やADBなどでトップやトップに近い仕事をされるのは、グローバルリーダーと言えるポジションだと思うんですけど、元々そうなろうと考えておられたんですか?あと、そういうポジションでやるための資質というか訓練は、オン・ザ・ジョブ以外でいうと、何が役立ったと思われますか。

河合:私は元々グローバルリーダーになろうという発想はもっていなかったですし、考えてもいませんでした。国際機関で働こうぐらいの気持ちはあったのですが。そういう意味では、今のGSDMの学生の皆さんはグローバルリーダーになることを考えられるチャンスがあるわけですね。ただ、リーダーというのは、なろうと思うだけではなれないので、そのための行動をしっかり取っていく必要があります。
まず第一に、自分の専門分野をしっかりと身に着けることですね。「この分野では私は誰にも負けません」というものを持つこと。そのことで自分に対して自信を持てます。自分への自信が一番重要で、自信がないとやりたい事もできなくなります。
第二は、自分の人生の分かれ目で、最適な決断をするよう心掛ける、ということです。最適な決断をするということは難しいかもしれませんが、私自身は次のように考えてきました。たとえば自分にいくつかの選択肢があるときには、どの選択肢をとれば自分の将来の選択肢(オプション)が広がるか、ということを考えて決断していくことです。私はアメリカでPhDを取った後、大学に勤めましたが、それは自分の将来のオプションを広げるものだという判断からです。アメリカの場合、大学に勤めていても、そこから政府機関や国際機関に移ることは比較的容易でしたが、その逆方向の動きは難しかったからです。実際、私の場合は、日本で大学に勤めた後、国際機関で、しかも多くのエコノミストを統括するという高いレベルで働くことができたわけです。
第三は、到来する様々なチャンスをものにする、ということです。私の場合は、世界銀行に行くというチャンスが与えられ、あるいは黒田東彦さんから二度にわたり財務省とADBにくるよう声をかけられたわけですが、それらを断り、大学だけにとどまっていたら、今の自分があったとは思えません。また、黒田さんという素晴らしい人をボスにもつというチャンスも、もしなかったら、今の私もなかったと思います。よいチャンスやボスに巡り合えることも重要です。
第四は、英語でのコミュニケーション能力、ディベート能力ですね。英語でのコミュニケーションをしっかりとるには、そのベースになっているカルチャー、特にアメリカ的な物の考え方を理解することが重要です。世界に出ていくと、「俺、俺、俺、俺にやらせろ」という人が多くいて、彼らに対応できないと、太刀打ちできない場合が多々あります。アメリカ的なカルチャーを理解することは、謙譲を美徳とする日本人の一番弱いところなので、時間を掛けて場数を踏んでやるしかありません。自分の意見ははっきり、しっかりと言うことがディベートの出発点です。
第五に、それ以上に重要なことは、他の人達を説得するための論理思考をしっかりともち、それをきちんと言葉で表す能力を身に着けることです。どのような組織でも、その大小にかかわらず、この能力を磨くことがリーダーになるための必須の条件だと思います。
GSDMの学生の皆さんには、自分にとって強い部分、自信を持てる分野を持てる機会に恵まれています。その入り口が、Ph.Dです。世界に出て行くとPh.Dを持っている人はたくさんいて、これは最低条件、スタートラインなのです。まずPh.Dをきちんと取ること、そして自分の分野で仕事をして自分に対する自信を持つことが一番重要です。それがあれば世界に出て行っても相当なことができると思います。

<インタビュー 岸本充生、記事構成 柴田祐子>