飯田敬輔

———飯田先生のご専門は国際政治経済(IPE)ですが、いつ頃からこの分野に関心を持たれたんですか?

飯田:私が学生であった当時、特に大平内閣以来、環太平洋構想、パシフィックリムといいますが、主には東アジアに加えて、アメリカや太平洋の向こう側の国も若干入る地域での経済連携、今のTPPの前身みたいなものですが、そういう共同体をつくろうというアイデアが、主に学会を中心にちらほら出ていました。これはひょっとすると実現するのかなみたいな雰囲気があったんです。それで、そのアイデアの変遷を辿るというようなオーソドックスな研究を東大に修士論文で出しました。

そのすぐ後にAPECができて、今度はTPPができるということなので、ある意味、先駆的なアイデアだったわけです。でもその当時は、「本当に海のものとも山のものとも分からないものを研究していて、何か意味あるの?」みたいな意地悪を言われたこともあるんですが、後から考えると、将来的には大事なことをやっていたんじゃないかという気はしています。

———Ph.D.論文は『The theory and practice international economic policy coordination』というテーマですが、ある意味、東大の修士論文をさらに世界に広げたように見えますが。

飯田:そういうふうにも見えるんですが、実はこれには色々ありまして、私の人生を変える転機みたいな話があるんです。私がアメリカへ留学に行ったのが、ちょうど1985年の9月6日か7日です。行った途端にハリケーンが来て大変だったんですが、そのハリケーンが終わったすぐ後ぐらいに、プラザ合意が発表されました。それで円ドル相場が大幅変更して、それから1年ぐらいで、円が50パーセントぐらい切り上がったんです。

これは普通の人には他愛ないニュースだと思いますが、当時の私にとっては非常に大きな問題だったんですよ。というのは、日本にいる間に一生懸命アルバイトをして何とかお金を稼いで、手持ちが多分100万円ぐらいで。それを全部ドルに替えて、9月の初めにアメリカに留学に持って行ったんですよ。100万円でも当時のレートでいうと4,000ドルぐらいだったと思うんですが、プラザ合意後には、あっという間に為替レートが変わって、この4,000ドルがどんどん減っていって。それを次の年、日本に持って帰ろうと思ったら、半分ぐらいの価値しかないわけですよ。こういう事態なので、これはもうしばらく日本には帰れないぞと、とにかく、ここで骨を埋めるしかないと思ったわけです。

———学問的なインパクトかと思ったら、そっち系の実際的なインパクトだったんですね。もちろん学問的にもですが。

飯田:若者にとっては非常に大きく、かつ実際的なインパクトでしたね。もちろん学問的には日米関係、特に経済の関係が、それをきっかけにものすごい状態になるわけです。2~3年間、通貨というものに対して、単に通貨の問題ではなくて、貿易摩擦とも密接にかかわっていることですから。今でいう、われわれの学問のIPEのほとんどコアな部分が、2~3年分に凝縮されて世の中で展開されたという状態でしたよね。それを間近で見ていると、単に新聞を読んでいるだけじゃいけないな、ちゃんと研究しなきゃいけないなという気になるのには、それほど時間はかからなかったです。

———先生の研究の中で、Economicsが入ったのはいつからですか。

飯田:そうですね。アメリカに行って、IPEという比較的新しい学問に出会って、それは政治学と経済学を融合するもので、政治学者が片手間に経済のことをちょっと知っていますというレベルではなくて、本当に学際的な学問だということが非常に強調されていたので、これは本気で勉強しなきゃいけないなと思いました。

その意味では、ハーバードは非常にいい環境にあって、同じビルの中に片一方のウイングには政治学部が入っていて、もう片一方のウイングに経済学部が入っているんです。ですから、ちょっと廊下を越えて「領空侵犯」すると、経済学者のジェフリー・サックスが歩いているわけです。お互いに交流の敷居が高くなかったので、ちゃんと単位を取ったというは少ないですが気軽に聴講して、当時は数的にはたくさん授業を聴講しました。どのぐらい身に付いたかというのは、また別のレベルですけど、少なくとも経済学はこういう学問なんだというのは、そのときに把握できたという感じです。その意味ではラッキーだったと思います。

———GSDM的にいうと横断的に乗り越えていくことについて、飯田先生はアメリカでそういう影響を受けたということが大きいですか。日本にずっといたら、しなかったというのはありますか。

飯田:そうだと思います。それは仮想実験していないので分かりませんが(笑)、それは検証できないんですけど、仮説としては成り立つと思います。ただ、ここで一言口を挟みたいのですが、こういうふうに語ると学者一本で来たように聞こえるのですが、実は、そもそも私がアメリカに行こうと思ったきっかけというのは別にあるんです。当時、日本は国連の第2の拠出国でお金はたくさん出しているんだけど、全然人を出さないと。一応、拠出金と日本人のスタッフの比率を何パーセント以内にしなければいけないみたいな目標があるのに、それを全然満たしてないと盛んに言われていたんです。私は非常に純粋な若者でしたから、それなら、日本人はもっとコントリビュートしないといけないんだという使命感みたいなものもあって。

———学生のとき、国際機関で働こうと考えていらっしゃったのですか?

飯田:ええ。もともとは国際機関で働くという気持ちが非常に強くて、学者になろうとは思っていなかったんです。学者という選択肢を捨てていたわけではないですが、実社会に出て、日本人として活躍するのはいいことなんじゃないかという非常に単純な発想で、実はアメリカに行ったんです。そのあと、いろいろな事情があって、結局、こういう学究の道に落ち着いてしまいましたが。ですから、割と実務にも関心はあるんですよ。

———GSDM生、特に理科系の学生に、グローバルリーダーになるにあたって、IPEや国際政治経済の分野を含めた文理横断的なアプローチをどのように捉えてほしいとお考えですか?

飯田:先ほど来、いろいろ話に出ているように、自分の性格なのか、それとも状況がそうさせたのかよく分からないですが、私は学問を越境するということを何回かやってきているんですね。それによって、非常に自分の学問が充実するということにもつながっていますけど、人間としても成長するという感じがあるんです。それは、今まで井の中の蛙だったのが急に広い世界を見たみたいな、そういう解放感みたいなものがあって。だから、学問の壁を超えるというのは、そういう意味では、単に学問にとどまらず、いろいろなメリットがあると思います。それを制度的にプログラムとしてやらせてもらえているGSDMというのは、非常に私にとってはうらやましいというか。だから頑張ってもらいたいですね。

———本当にそうですよね。私が学生の時にGSDMがあったら、入りたかったぐらいです。

飯田:そうなんです。ですから、ぜひその機会を十分に利用して成長していただければいいんじゃないかなと思います。

特に、いろいろな先生の授業を聞くというのも大事ですけど、異分野の学問の学生と交流するというのも非常に大事だと思います。私も、ハーバード時代は、経済学をやっている連中との付き合いが非常に多かったです。その他にも、留学すると、どうしても日本人コミュニティができて、その中でこういう日本人がいるよと、社会学の人とか考古学の人とか、いろいろな人と付き合うようになるんですね。彼らが話していることは、全然自分が知らないことばかりなので全部が新鮮で。日本にいると、どうしても同じ門下だけとか、狭い世界の付き合いになってしまうので。日本人だけで集まるというのは、もちろんデメリットもあるんだけど、そういうメリットもありました。できれば、そこに日本人だけではなくて他の国の人が入ってくると、もっといいんですけど。そういう異文化交流をどんどんやっていただくというのは、非常にいいことじゃないかと思いますので、ぜひ頑張っていただきたいです。

<インタビュー 岸本充生、記事構成 柴田祐子>