資源を中心に 新しい社会の枠組みをつくる

東京大学東洋文化研究所 新世代アジア研究部門 教授 佐藤仁

面白い文献との出会いで視野を広がる

———先生は非常に多くの資料をお持ちですよね。インターネット時代になって、何かを調べに図書館へ行く機会が減っていると思うのですが、先生はいかがですか?

佐藤:僕は図書館が多いです。紙でしか残ってないものって、まだたくさんあるんですよ。例えば昔の官僚が書き残した議事録は大英図書館や外務省の外交資料館とか、そこに行かないとないわけで。よく図書館に本を調べに行ったりすると、探してたものの隣にもっと面白い本があったりしますよね。過去をさかのぼるプロセスにおいて、当初は自分が目的としていなかったいろんなバイプロダクト(副産物)に会って、過程の中で自分のすそ野がどんどん広がっていく感じがするので、そのプロセス自体がすごく楽しいですね。

———先生のところのゼミ生や学生も、先生のようなアプローチを取られるのですか?

佐藤:基本的に僕は図書館と、現場や村、役所のフィールドワークの3点セットをぐるぐる回すことが、政策を理解するときには不可欠だと思っているんですが、これはものすごく時間がかかるんです。特に外国となると、その国の言葉が想像できないといけませんし。なので、修士課程ではとにかく現場に行っていろいろ話を聞いて、まずは現地語ができないと何もできないってことを痛感するとか、そのレベルでも十分かなと思ってます。
これは僕も最近分かってきたことですが、面白い文献を読むことによって、同じ村に行くとしても、質問のバリエーションがものすごく変わるんですよ。例えば、最近僕が翻訳した『ゾミア』という本に、東南アジアの山の上の方に住んでいて、文字が読めなくて、焼き畑で移動しているから原始的だと言われている人たちが紹介されているんですが、実はそれは平地の国家に対抗するために、わざと文字を持たないようにしてることだし、捕まらないようにわざと動き回っているという、彼らの「戦略の結果」なんだと著者は言っているんですね。そういう視点で東南アジアの世界史を書き直してみると、全然違う世界になってくるって書いてあるんです。僕はこういう本を自分が博士のときに読んでなかったから、例えば奥地に行って竹で造った家とかを見ても「これは政府の役人が来たときに急いで畳んでどこかに逃げるためですよね」とか、そういう質問が残念ながらできなかったんです。当時の僕の中にはそういうメニューがなかった。でも、こういう本を読むと、次は何か別の質問を村人にしてみたいなって思いますよね。

———先生は調査でいろいろな方にインタビューに行かれていますよね?

佐藤:はい。資源の歴史をやっていた時はいろいろ行きましたね。最近一番すごかったのが、アッカーマンのご子息を訪問したときですね。アッカーマンとは、GHQ(占領軍総司令部)のアドバイザーで日本に来た当時35歳のアメリカ人で、ハーバードの若き地理学者でした。本人はすでに亡くなっていたんですが、その子どもをなんとか見つけ出して、アメリカのメイン州のご実家まで会いに行ったんですよ。

知りたい。それならば徹底的に調べる。

———どうやってご家族までたどり着いたのですか?

佐藤:アッカーマンというラストネームで、かつ親の年齢から子供の年齢を推測して人捜しをしたら、全米で25人ぐらいリストが出てきたので、とにかく全員に電話しようとしたんです。そしたら、なんと3軒目ぐらいでアッカーマンの娘さんに当たったんですよ。(笑)
アッカーマンが残したものの中でアーカイブに入っているものがいくつかあるんですが、彼は戦後1946年から2年ぐらい日本にいたので、終戦直後の東京の写真とか、他にももっとあるはずだって僕は思ったんですよね。それで、とにかく家にあるものを見せてほしいって娘さんたちに頼んだんです。そしたら、自分はメイン州にいるから来たかったら来ていいという話になったので、「行きます」と答えて、家に行ってきました。
突然、訳分かんない日本人が来たら普通びっくりしますよね。最初はやっぱり半信半疑というか、こいつ一体何者だ?!っていう感じだったと思うんですよ。でも、自分の父親がどんな人だったかというのを知りたいって思いもあったんでしょうね。彼らは自分のお父さんを二十歳ぐらいに亡くしているからあまり記憶が無いけど、逆に僕はいろんな資料を見てるから、むしろ、子どもたちよりも僕の方がアッカーマン本人のことを知ってるんですよね。アッカーマンが書いた手紙とか、日本人とのいろんなやりとりとかを読んでますから。

———確かに、娘さんは自分の父親が日本で何をしていたかはご存じないですよね。

佐藤:そうなんですよ。あなたのお父さんは本当に日本人に対して、こういうことをされた人なんですよって話をしましたね。エドワード・アッカーマンって、日本でいろんな人に愛された人でね。彼は日本の農村の実態調査みたいなのをしていて、当時、日本中の都道府県のうち45府県ぐらい踏査してるんですよ。そのときにアッカーマンを受け入れた農民の記録というのも、松本の図書館で初めて見つけて感動しました。
あるアーカイブに行ったときに、アッカーマンに宛てた日本人の手紙をいくつか見つけたんですけど、その中に「あなたの訪問は非常に光栄で、また日本に来るときは遊びに来てください」と書き残されていたんです。今、私たちの村はこんなになっていますとか書いてある、とにかくすごい手紙だったので、この手紙を書いた内城本美さんってどんな人なんだろうと思って調べたんですよね。そしたら、そのご本人はもう亡くなっていたんですがお子さんがいて、そうこう調べるうちに農工大の先生に連絡がついて、内城さんが書き残したものが松本(長野県)の図書館に1冊あることが分かりました。それで松本まで行ってみたら、アッカーマンが来た時の記事というのが残っていました。その当時、長野県にGHQの役人が来るらしいけど、どうしよう、どうしようと組合で集まって、どうやって役人を迎え撃とうか相談をした村人の話というのが書いてありました。

———それがアッカーマンだと、先生が最初に見つけられたんですね。

佐藤:GHQの役人を受け入れる側の農民の記録というのは読んだことがなかったので、これを見つけたときは、本当に新鮮な喜びを感じました。アッカーマンは東大に来たこともあったんですよ。当時の南原総長が「アッカーマン殿、お茶を差し上げたいので何時に来てください」と書いた手紙がアッカーマンの自宅に保存されていたんですけど、家族はそれが何の手紙か分からなかったみたいですね、何十年もずっと。家に伺った時に僕がそういう手紙をいろいろ読んであげたんです。そしたら娘さんが、彼がGHQ時代に使っていたいろんな道具をくれると言って、いただいたのが、このプラニメーター(写真・上)です。フランシス・アッカーマンという娘さんが、確かにこれはジン・サトウのためにあげたもので盗んだものじゃないですよって、わざわざメモまで作ってくれて。あとは、彼が東京にいる間に着てたGHQの緑色のコートもあげるって言われたんですが、さすがにそれはちょっと悪いなと思って、写真だけ撮らせてもらいました。あとは昔の定規の計算機とかね。もう本当に趣味の世界ですよね。(笑)学問的に何の役に立つか分からないんだけど、こんな感じで楽しくやってきました。

<インタビュー 岸本充生、記事構成 柴田祐子>

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